2018年回顧 読書編

さかしま/ジョリス=カルル・ユイスマンス

休戦/プリーモ・ミケーレ・レーヴィ

第三の警官/フランオブライエン

謎解きカラマーゾフ/江川卓

第八の日/エラリークイーン

楽園への疾走/ジェームズ・グレアム・バラード

ゴーメンガースト/マーヴィンピーク

鏡の中は日曜日/殊能将之

バルカン/マークマゾワー

落し物 /横田創

シネマの神は細部に宿る/押井守

ビリーザキッド全仕事/マイケルオンダーチュ

この世の王国/アレホカルペンティエール

日本政治思想史/原武史

赤い星/高野史緒

オスマン帝国500年の平和/林佳世子

夜のみだらな鳥/ホセドノソ

怪奇小説傑作集1

ファイアフォックス/グレイグトーマス

ノヴァリースの引用/奥泉光


トップ10まで絞ろうとしたが絞りきれなかった上に順位も決められなかったので20冊にしました。これでもだいぶ厳選したのだが






2018年回顧 映画編

2018年の劇場で見た新作映画の中から10本ということで……


1位 ジュラシックワールド/炎の王国

2位 万引き家族

3位 ランペイジ

4位  霊的ボリシェビキ

5位 シェイプオブウォーター

6位 告白小説、その結末

7位 デトロイト

8位 アベンジャー/インフィニティウォー

9位 ウインドリバー

10位 ボーダーライン/ソルジャーズデイ


炎の王国はブロックバスター映画でこんなものが観れるとは思ってなかった、というところが大きい。

今までのジュラシックシリーズを総括してこれまでのシリーズの内容を(単に運営側の間抜けさではなく)人間の世界の長期的な崩壊の先触れと位置付け、挙げ句の果てに人間の世界ががっつり終わるところを映してしまった映画だと思うんだが。ラストの恐竜が外の世界を蹂躙する点景が素晴らしく不安だ。

そこに至るまでの展開もゴシックホラーな感じでとても良いし全体的に趣味が良かった。


万引き家族は遠景のシーンが多いのにも関わらず不思議と登場人物に寄り添うようなショットが多く見受けられた。家出をした長男とそれをむかいに来た父親を写す遠景、川縁をとぼとぼと歩く長男と次女を写す遠景、そのどれもがこれ見よがしに感動を共感させようという意思を感じさせないのにも関わらず泣いてしまいそうになった。

しかしこの映画の恐ろしいところは終盤になって急激に現実と相対化させ始めるところだ。

警察の事情聴取シーンを警官側からの主観アングルで写してしまう。そしてそこで警官に部外者が言いそうな正論、要するに知りもしない他人に一方的に"正論"をぶつける俺も含む我々が言いそうなことを逐一言わせてしまう、ある種家族に感情移入してみている観客に「でも君ら普段はこういう人たち捕まえて知りもしないでこんな"正論"吐きますよね」と言い切ってしまうような感覚があり素直に泣かさない、ちゃんと物事を考えろ、というメッセージをぶち込んでくるというのが恐ろしい。誰も知らないの頃から似たようなことはやっていたけど同じことをショットとカットの構築で表現しているというのも恐ろしい


ランペイジは国外怪獣映画物だとダントツに好きかもしれん(いやパシフィックリムはロボの比率が圧倒的に大きいし)

何が良いって上映時間のタイトさでいらんサブエピソードを盛り込み無駄に2時間何分もかかる凡百のアクション映画と違って100分ちょいに抑えているのがいい。

例えば主人公を元特殊部隊員で霊長類学者にするっていうのもいかにめんどくさい部分をすっ飛ばして怪獣同士の潰し合いに移行するか、要するに怪獣同士の戦い描きてえんだけ、キャラの深み?整合性?共感出来るキャラか?糞食らえ!というところを感じてとてもよろしい

あと軍事的なディテールのそれっぽさも案外悪くない。怪獣の展開速度が速すぎて州軍は対応に追われるとか結構それっぽいし。

あとOGAのおっさんがいいキャラしている。


霊的ボリシェビキはなんかもはや映画批評本の枠を軽々超え半ば魔道書とかしている傑作映画の魔を書き、黒沢清映画の脚本を書き、jホラーの一時代を築いた女優霊の脚本を書いた何も関わらず監督としてはいまいち予算とやろうとしていることが噛み合わず何とも言えない映画を撮っていた高橋洋。が少ない予算で自分の起こそうとしている事の片鱗を見せることが出来た映画だと思う。最後の木の塊が落ちてくるシーンの嫌さはガチ。あと怪談を話しながらボリシェビキ党歌を歌うなんてけったいなシーンが観れるのはこの映画くらいだと思う


シェイプオブウォーターは半魚人映画、モンスター映画の歴史を踏まえた上でそれをラブロマンスに変換してみせる手腕が見事。あと単純にいろんな造形面のセンスが良い。人間の美形なんぞよりモンスターのほうが億倍かっけえわ!って言うデルトロの思いが伝わるような半魚人の異形にも関わらず優雅さを感じさせるプロモーションも良いし、冷戦ゴシックを感じさせる研究所の佇まいも良い。

 

告白小説はポランスキーとしちゃあ普通なんだけど単純にカットとショットの不穏さが良い。あとポランスキー映画における暴力はワンテンポ遅れてやってくる、っていう事に気がついたんだがそれは別の記事で書く


デトロイトは実際に起こった事件を描く事にとことん真摯な映画だと思われ。そもそも人間は主観に凝り固まった生き物だから事実を客観的に描くなんてのは不可能なんだけどこの映画はかなり凄いところまでいった感じはある。具体的な悪人はいないのに悪化していく状況を描いてしまった映画だと思う(あのクソ警官にしても本人的にはまじめに仕事してるだけだからね)


インフィニティーウォーは構造レベルでヴィランのサノスを主人公に映画を撮っててすげえ。話の配分時間といいマーベル恒例のエンドロール後の○○は帰ってくるをサノスは帰ってくる、ってやったり。なんかもうサノス最高。宇宙の安寧秩序を慮っているのにクソ迷惑でクソ傲慢なとことか最高。戦闘シーンも全編わたっていいです。

あとサノスが回想入るときの導入インフィニティストーンの能力で幻覚を発生させる、って言うのが回想の入り方としてはスムーズだと感じた。


ウインドリバーは弾着時の防弾ベストを着ているのといないので反動の受け方が違う、というのを撮っててそこが好きだったりする。いやそこらへんは詳しくないんだけどそれっぽさがあった。静謐に話が進んでいく前半と終盤の狙撃シーンの派手さは緩急あって見てておおっ!となった。あとシェリダンは居た堪れないシーンを撮る人だ、というのはこれとソルジャーズデイを見て感じました。少女殺しの容疑者だった兄貴が別件で逮捕されると思って一通り暴れたあと捕まって妹の死を伝えられて泣き始めるシーンの居たたまれなさはちょっとないくらいだ。


ソルジャーズデイはヴィルヌーヴの一作目に比べると落ちるんだけどそれでもよかった。

のっけからアメリカ政府がテロに関与したソマリアの海賊相手にボーダーライン一作目で麻薬カルテルがやった"自分の意に沿わない相手の家族を殺していき意のままにする"っていう手段を取る姿を映すことである種カルテルと国家の間に区別をつけない、本質的には同族である、という身もふたもない話をやってしまったのは驚いた。

アレハンドロとマットに関してはキャラを掘り下げた結果2人ともある意味人間になっちゃった感じがあるんだけどアレハンドロの娘が聾唖だった、ということが判明するシーンはある種のエピファニーというか深く沈殿させていた遣る瀬無いものが浮かび上がってしまった感があって居たたまれなくさせられた。

カットとしては爆弾テロのシーンの長回しとかアレハンドロが顔を撃ち抜けてからの一連の流れは凄い良かったと思う。あのブラックホークの撮り方かなり好き。



ボーダーライン 地獄の構造

ヴィルヌーヴの最高傑作であると同時に脚本のシェリダンの最高の仕事がこの映画だと思う。


あらすじ解説とかは他の方に任せるとして(他力本願)この映画は心底恐ろしいことをやっている。


この映画の主題はラストの嘆きの検察官こと殺し屋アレハンドロの台詞である「ここは狼の地だから」という一言で簡潔に表すことが出来る。


麻薬カルテル同士のもはや抗争や戦争とも言えないような潰し合いが激化しすぎて挙句そこにアメリカの秩序安寧のために謀略をダース単位で行うCIAの意図とが混じり合ってもうどうにもなりまへん、あかんですわ、という混沌とした、物語として纏めることが実質不可能な状態をこの一言は表している。

そしてこの映画はその混沌を現出させることに成功してしまった。


どうやったか?主人公として現れたエミリーブラント演じるFBI警官ケイトを徹底的に話の中心から阻害していくことで。


ケイト自体この映画では唯一の観客に感情移入させることが出来るキャラクターだ。他のメインキャストの2人はというとアレハンドロは兎に角曰くありげだが何も語らないしマットに至っては輪をかけて胡散臭い。

必然的に捜査に同行する動機があり序盤の突入シーンで有能さを見せつけたケイトに観客の感情移入を集中させられる。


そして感情移入させた挙句に徹底的に蚊帳の外に置かれる。観客もろとも。何を聞いてもアレハンドロは「我々のやることをただ見ていろ」と返すのみ。挙句CIA単独での国外捜査は不可能なので自分が共同捜査に呼ばれた理由がパスポート扱いに他ならない事を告げられる。

違法捜査に異を唱えるケイトに対しすべてを語るマット(ここの台詞回しはロジャー・ディーキンスの撮影もあり生き物のように這っていく陰影もありマットが人間に見えない、地獄の黙示録のカーツ大佐を思い出すなという方が無理だ)ここのシーンCIAの目的がカルテル間のパワーバランスの調整である事、アレハンドロは新参のカルテルに妻子を殺された元検事にして今は古くからあるコロンビアカルテルの殺し屋(原題であるシカリオ)であることが告げられる。そして会話が終わりアレハンドロが単独で車を駆り暗闇を突っ切っていくシーンに移行する(このカットの繋ぎを見よ、静のシーンから動のカットをダイナミックに繋いでいる。)

このすべてが明らかになるシーンはエピファニーの様相を呈している。顔の見えてこない暗殺者が1人の人間としての顔が見え、そして秩序それ自体が根源的に保持している暴力性が浮かび上がってしまった。

 

アレハンドロを暗殺対象を家族もろとも殺し(この際のデルトロの表情を見よ)任務は完了する。その後アレハンドロはケイトを訪れ"何も違法行為を見ていなかった"という書類にサインさせられ、原題であるSicario(殺し屋)のタイトルが浮かび上がり今作は徹底的に殺し屋アレハンドロの映画であったこと判明し、映画は幕を閉じる


この映画は映画それ自体が持つ一方的に見させられる、という暴力性を体現している。映画というメディアは観客からの能動的な行動を徹底的に拒み受け身の対応者としての立場を強いる、そしてある風景を現出させるメディアではないだろうか?(例えばポランスキーの映画を例にあげればいいだろう)


本文で描きたかったけど入れ忘れたボーダーライン萌えポイント及び気になったシーン

・赤外線カメラ越しの映像萌え。特殊部隊が歩いているというより幽鬼が群れをなして歩いているように見えてしまうのが恐ろしい。

・あのトンネルの存在は偉く不穏だ。フリッツ・ラングもマブゼで地下をなんらかの象徴として出していたがそれを思い出した。

・終盤のアレハンドロ無双。あのくだりはリこの映画が保ってきたリァリティのラインを一気に飛躍した感がある。

サイレンサー装備の銃火器による暗殺シーンは鳴っている音は空気の抜けるような間抜けな音なのに相手は死んでいる、というような違和感を感じさせられてとても良かった。ノーカントリーサイレンサー付きショットガンのシーンでも同じことを思ったが。

・次回作の話になるけどアレハンドロの娘が聾唖(聞くことはできないけど見ることが出来る)とケイト(君は見ていろ、としか言われない)が似ていると言われるのは何かの符号なのだろうか?最終章はそれを拾うのだろうか?


 







はじめに

ひとつは図書館はあまりにも大きく、人間の手による縮小はすべて軽微なものであるということ。、いまひとつはそれぞれの本が唯一のかけがえのないものだが、しかし、千の数百倍もの不完全な複写が、一字あるいはひとつのコンマの相違しかない作品が常に存在するこということ。 

J.L.ボルヘス バベルの図書館


そもそもの話私はボルヘスがバベルの図書館で書いたようなひとつのの作品の背後には無数の複写があり無数の先行作品がありその先行作品にもさらに無数の複写が存在しておりその批評にすらも無数の複写が存在している、というスタンスの信奉者である。

その上で今更自分が書くべきことは何もなく言うべきことはなにもないと考えていたがその考えを撤回してなにがしか書こうと思い立ったのは理由がある。

自分自身がなにがしかの触れて作品にヤバいものを見た、呪われてしまった、永遠を見た、と感じたその瞬間を忘れないため、反芻するため、永遠を見た、と感じたあの一瞬を取り戻す、いわば自己満足のために、ブログを始めようと思った次第だ。

しかしブログの文章を書くのは難しい。自分の書いたこの文を見直してへんな硬さと自意識過剰が凄まじくうわーという感想を自分に持ってしまった。