ボーダーライン 地獄の構造

ヴィルヌーヴの最高傑作であると同時に脚本のシェリダンの最高の仕事がこの映画だと思う。


あらすじ解説とかは他の方に任せるとして(他力本願)この映画は心底恐ろしいことをやっている。


この映画の主題はラストの嘆きの検察官こと殺し屋アレハンドロの台詞である「ここは狼の地だから」という一言で簡潔に表すことが出来る。


麻薬カルテル同士のもはや抗争や戦争とも言えないような潰し合いが激化しすぎて挙句そこにアメリカの秩序安寧のために謀略をダース単位で行うCIAの意図とが混じり合ってもうどうにもなりまへん、あかんですわ、という混沌とした、物語として纏めることが実質不可能な状態をこの一言は表している。

そしてこの映画はその混沌を現出させることに成功してしまった。


どうやったか?主人公として現れたエミリーブラント演じるFBI警官ケイトを徹底的に話の中心から阻害していくことで。


ケイト自体この映画では唯一の観客に感情移入させることが出来るキャラクターだ。他のメインキャストの2人はというとアレハンドロは兎に角曰くありげだが何も語らないしマットに至っては輪をかけて胡散臭い。

必然的に捜査に同行する動機があり序盤の突入シーンで有能さを見せつけたケイトに観客の感情移入を集中させられる。


そして感情移入させた挙句に徹底的に蚊帳の外に置かれる。観客もろとも。何を聞いてもアレハンドロは「我々のやることをただ見ていろ」と返すのみ。挙句CIA単独での国外捜査は不可能なので自分が共同捜査に呼ばれた理由がパスポート扱いに他ならない事を告げられる。

違法捜査に異を唱えるケイトに対しすべてを語るマット(ここの台詞回しはロジャー・ディーキンスの撮影もあり生き物のように這っていく陰影もありマットが人間に見えない、地獄の黙示録のカーツ大佐を思い出すなという方が無理だ)ここのシーンCIAの目的がカルテル間のパワーバランスの調整である事、アレハンドロは新参のカルテルに妻子を殺された元検事にして今は古くからあるコロンビアカルテルの殺し屋(原題であるシカリオ)であることが告げられる。そして会話が終わりアレハンドロが単独で車を駆り暗闇を突っ切っていくシーンに移行する(このカットの繋ぎを見よ、静のシーンから動のカットをダイナミックに繋いでいる。)

このすべてが明らかになるシーンはエピファニーの様相を呈している。顔の見えてこない暗殺者が1人の人間としての顔が見え、そして秩序それ自体が根源的に保持している暴力性が浮かび上がってしまった。

 

アレハンドロを暗殺対象を家族もろとも殺し(この際のデルトロの表情を見よ)任務は完了する。その後アレハンドロはケイトを訪れ"何も違法行為を見ていなかった"という書類にサインさせられ、原題であるSicario(殺し屋)のタイトルが浮かび上がり今作は徹底的に殺し屋アレハンドロの映画であったこと判明し、映画は幕を閉じる


この映画は映画それ自体が持つ一方的に見させられる、という暴力性を体現している。映画というメディアは観客からの能動的な行動を徹底的に拒み受け身の対応者としての立場を強いる、そしてある風景を現出させるメディアではないだろうか?(例えばポランスキーの映画を例にあげればいいだろう)


本文で描きたかったけど入れ忘れたボーダーライン萌えポイント及び気になったシーン

・赤外線カメラ越しの映像萌え。特殊部隊が歩いているというより幽鬼が群れをなして歩いているように見えてしまうのが恐ろしい。

・あのトンネルの存在は偉く不穏だ。フリッツ・ラングもマブゼで地下をなんらかの象徴として出していたがそれを思い出した。

・終盤のアレハンドロ無双。あのくだりはリこの映画が保ってきたリァリティのラインを一気に飛躍した感がある。

サイレンサー装備の銃火器による暗殺シーンは鳴っている音は空気の抜けるような間抜けな音なのに相手は死んでいる、というような違和感を感じさせられてとても良かった。ノーカントリーサイレンサー付きショットガンのシーンでも同じことを思ったが。

・次回作の話になるけどアレハンドロの娘が聾唖(聞くことはできないけど見ることが出来る)とケイト(君は見ていろ、としか言われない)が似ていると言われるのは何かの符号なのだろうか?最終章はそれを拾うのだろうか?